Welcome!  Kurihara Seiki Co. blog

弊社の得意先、関係先が出展されています。

http://www.hobby-shizuoka.com/


 わが社の唯一のクラブとしてロボット部があります。

 毎週水曜日に活動して、少しづつロボットを作っていましたが、なかなか時間がとれ

ず、はかどらないでいたんですが、今年の4月に入社した新人君たちが、毎日お昼休

みにコツコツと製作し積み重ねた結果、ここ数週間で上半身が出来上がりました。

他の部員の人たちが見たら、びっくりするでしょうね(^_^;)

 

    


(株)町田製作所様との出会いが、その後の栗原精機の方向性に大きな転機をもたらします。内視鏡の専門メーカーである町田製作所は、規模は小さいながら、当時、オリンパスや富士写真と並ぶ技術力を誇る会社でした。そもそもは親戚筋からの紹介で部品加工を請け負うことになったのですが、だんだんと新製品の開発にも関わらせていただくようになり、栗原精機自身の加工技術力を高めていくきっかけとなりました。

医療用具の中でも内視鏡は、俗に胃カメラと言われるように、機械そのものを患者さんの体の中に挿入していく機器であるため、そこに使われる部品の加工精度もたいへん高いものとなります。その要求に何とか応えるべく努力した結果、作業者の技能を高め、生産設備も充実させていくことになったのです。

町田製作所の内視鏡は、医療用に止まらず工業用分野でも高い評価を得、航空機エンジンの検査や原子炉の点検検査などにも使用されるようになっていきます。それに伴い、栗原精機の役割も増えていき、1978年、昭和53年には、会社敷地内に木造二階建ての新工場を増築して、加工部品のアッセンブリー業務の請負も開始しました。

昭和55年度の決算を見てみると、当時の主要取引先は5社で売上高は5600万円、そのうち電気配線用具関係と内視鏡関連が半々くらいの取引量となっていました。従業員数は7~8名という規模になっています。

そして次の大きな転換期は、その2年後にやってきます。NC旋盤の第一号機の導入です。スター精密のSNC-25。この機械の詳しいことは、このブログの以前の記事に書いていますので、ぜひ、そちらもご覧ください。

http://www.kurihara-seiki.co.jp/wp/?p=210


1973年、昭和48年。私は引っ越し先の地元の公立中学校に入学します。まったく友達のいない不安な入学式。クラス分け後、わいわいとにぎわう教室でも話し相手のいない自分に一番最初に話しかけてきたのは、いま、会社で専務となっている高鳥でした。

その後、もう一人のO君との3人で仲の良い友達となって、ずっと行動を共にするようになります。予断になりますが、O君とは高校も同じで、同じラグビー部に入部しました。今から思えば、彼らとのこの出会いがその後の40年の人生にとても大きな大きな出来事だったわけです。

会社は社名を現在の株式会社栗原精機とし新たな一歩を踏み出します。社員は社長以下4名ほどだったと記憶しています。工場の裏地は休耕田が広がっていて、白さぎが何羽も羽を休めているような、とてものどかな片田舎の風景でした。仕事中にもかかわらず、たまに釣り糸を垂れている社員の姿なんかも見かけましたね。ほんと、のんびりしていました。

電気配線用スパイラルチューブの生産は相変わらず続いていましたが、そのほかに機械加工の仕事としては、カメラの部品や折りたたみ傘の持ち手の部分など、相当な量がありましたが、ペンチレースで一個一個手作業していました。私もたまには工場でお手伝いしてお小遣いをもらったりしていましたね。

(つづく)


思い起こすままに、栗原精機の成り立ちについて書き留めていこうと思います。

社史によると、弊社の創業は、昭和43年8月、埼玉県川口市赤山において栗原保男(現会長)が栗原精機製作所を設立。カメラ用部品の製造を開始する、とあります。

そのころの我が家は、六畳間と四畳半に台所のついた小さな家に家族四人暮らしでした。私は小学校の2年生だったでしょうか。猫の額ほどの庭に父が小屋を建て、そこに小さなペンチレースという機械を置いて、夜な夜な仕事をはじめたことを覚えています。タバコ一本ほどの金属の材料が、シューっという音と白い煙とかすかな油の匂いとともに、削られ形を変えていくさまを、じっと眺めていました。

たしか、父は昼間、別の工場で働いていたと思いますが、一念発起、独立を決めたのが、この昭和43年ということになるのでしょう。いきなり、住んでいた家の半分を取り壊して工場にしてしまいました。残った四畳半に布団を敷くと、枕のすぐそばにガラス戸をはさんで機械が動いているという環境となってしまいました。

父は二人の若い従業員を雇い入れ、本格的に機械加工工場の事業に乗り出したわけですが、私と弟は、二人のアニキによく可愛がってもらいました。いつも食事もいっしょ、本当の兄弟のように慕っていましたね。

会社の最初の転機は、創業から2年後。町内会長さんからの紹介で、電気配線用スパイラルチューブの生産を受注、この仕事が日ごとに忙しくなり、家族まで総出でこれに毎日追われる日々が続くことになります。

それからさらに2年、半分工場、半分住まいの小さな家から引越しをする日がきます。私は小学校の卒業を間近にしていました。新しい家は、車で15分ほどのところ。家族四人が四畳半で片寄せ合っていた生活から思えば、夢のような大きな家でした。二階には自分の部屋があり、まだ何も置いていない板の間に大の字に寝転んで、その広さを確かめたことを覚えています。敷地内には別棟の工場があり、大型の旋盤も設置されていました。

(つづく)


通常、ラジコンカーのパーツなどにロゴマークなどを刻印するために用いる、レーザーマーキング装置でステンレス製のリングの内側に文字を打ってみました。ちょっとした工夫は必要ですが、なかなかどうして、けっこううまいことできそうです。

指輪にイニシャルや日付を刻印したり、工業製品の部品でも外側にはマーキングしたくない場合など、応用しだいでは使える技術になるかもしれません。


新入社員

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本日(4/2)、2012年度、新規採用の二名が入社しました。二人とも高校を卒業したばかりの18歳。社会人としての第一歩を縁あって栗原精機で踏み出すことになりました。入社式では社員全員と初顔合わせ、緊張の面持ちで自己紹介をしました。

式が終わるとさっそく作業着に着替え、工場での研修がはじまりました。しばらくは見習い工として、油にまみれて働いてもらいます。そうだな、3年経ったら、少しは技術者っぽくなれてるかな?それまで挫けずがんばれ!


3月27日(火)、若手経営者グループ・草加RINCの定例会が開催されました。参加は11名、今年度最後の例会ということで、この一年の活動について、反省や感想など、活発に意見交換を行いました。さらにそれを基に、次年度の活動方針について、各自の要望も含め、前向きな議論を交わしました。例会終了後の懇親会まで含め、約4時間にわたって、皆さんの意見は途切れることなく、ほんとに有意義な時間でした。

若手経営者の会と言いながら、実は、自分を筆頭に50代に突入したメンバーも数名在籍。もちろん中心的なメンバーは30代、40代ですが、そろそろ名実ともに若い方たちに運営もお願いしたいところですな。


3月16日、金曜日になりますが、群馬県沼田市にあるM金属工業様を訪問してきました。写真は途中、関越道の赤木高原SAからの武尊山です。ここまで来ると雪山が間近です。学生時代にはよくスキーをしにこのあたりまで来ていました。目にする地名など、ちょっと懐かしい…。

 さて、この日お訪ねしたM金属工業様は、うちと同業の金属切削加工業。規模的にも設備している機械もちょうど同じくらいの会社さんです。先日、こちらの社長様から直接オファーをいただき、業務において協力関係を築ければということで、お話させていただきました。社長様は自分より一回りくらい上でしょうか、弟さんが専務をなさっていて、息子さん?が加工チームのリーダーをされている、アットホームな雰囲気もある素敵な会社とお見受けしました。

仕事の面では、ISO9000を取得されているということもあり、管理の行き届いたきちっとした仕事をされているという印象を受けました。何か具体的に仕事をお願いするお話もと思いましたが、初めての訪問ということで、それぞれの会社の内容についてお話させていただくにとどめ、帰路につきました。車の運転をしながら、お話し、拝見したことを頭の中で整理しつつ、同じ仕事に携わってきた先輩からは、やはり学ぶところがたくさんあったなと思いました。今後もぜひお付き合いさせていただきたい会社さんでした。

 


日立精機製、ハイセル23Ⅱ。設備の台帳には、平成10年に導入と記されていますが、実は、この機械、導入時にはいろいろと経緯がありました。使い始めてすぐに不具合が発生、メーカーに機構部の設計を見直しするように求め、改めて納入してもらったという逸話が残っています。

 

 

まあ、その甲斐あって長く今日まで弊社工場の中核機として活躍しています。昨年末、大掛かりなオーバーホールを敢行して、少なくともあと数年はがんばってもらうことになりました。写真はそのときの作業の様子。

 

 

 

やぐらを組んで主軸から各ユニットまで全部取り外されてバラバラの状態に。この道50年の会長もここまでやる修理は初めて見たと言っていました。

 

 

 

基本的には回転している棒材に刃物を押し当てて削る旋盤という機械なのですが、うちの場合はこの機械の複合性能をフルに活用して「丸くない製品」を作ることに特化させています。

 

 

 

比較的、段取りもしやすく使い勝手のよい機械のなのですが、この機械のメーカー、日立精機はすでになくなってしまった会社。もちろん後継機は生み出されることは無くなってしまいました。修理サービスは森精機が引き継いでいるので助かっていますが、さて、本当にこの機械が寿命となったときにはどうしましょうか…。

 

 

 


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